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20.12.06

靖国問題

 今、友人から貰った「靖国問題」という本を、興味深く読んでいる。この本の中には当時の日本キリスト教と靖国との係わりについても書いてあり、特にそこで感じることは大きかった。クリスチャンの行動としては「それで良かったのか?」と責める気持ちが一番に湧いてくるのだが、この時代の日本のクリスチャンは今のクリスチャンとは全く違った大きな問題(試練)を抱えていたのだと思うと、自分は一体どうするだろうと考える。goo辞書(できれば広辞苑などをひきたいのだが、手元にない)で「参拝→拝む」というのをひくと、「神仏など尊いものの前で、手を合わせたり礼をしたりして、敬意を表したり祈ったりする」と書いてある。聖書的にはこれは「偶像礼拝」、もしくは「他の神を崇める」という十戒にも書いてある罪だと思うのだが、自分がこの当時生きていたとしたら、やはり周りに流されて参拝していたのではないだろうか。「カタチだけ参拝する振りをすればいいや」なんてことも思うのだが、それで罪に定められないかというとそうではないような気がする。もちろんキリストはそのような人間の考えることは全て見通しているのだろうし、赦してくれると思う。というか、そのようなことも全て含めてクリスチャンは既に赦されている。だが、問題はそのような罪と定められるであろう行動をとった後に、自分がそれについてどのように自分を裁くかであろう。靖国参拝を拒否して殺されるということはなかったであろうが、「踏絵」と似たようなところもあると思う。遠藤周作が「踏絵」について、自分ならどうするかと書いているが、僕も遠藤周作の意見に近いものを持っている。ただ、その後自分の犯した罪に対して、自分がどのような判断を下すかは、実際にそのような状況になってみないとわからないが。「罪」であるというのは明確なのだが、「罪」というのも一言では言い表せないものだと思う。

posted tomoyuki : 20.12.06 11:26